個々人にとっては同じような外観を呈する闘いや主体的な死も、置かれた状況ごとにその質や意味が違ってくるわけです。
しかしそうした崇高な闘いの高揚も、いずれは波が引くように沈静化します。
ヒトビトがエネルギー個体としてバラバラに分断されている状況のもとでは、闘いを高揚させること自体からしてなかなかに困難でしょう。
では、せっかくの連帯的協働も単にいっときの祝祭に成り終わるほかないのでしょうか。
そうではないと思います。
「闘い」の概念を狭く限定するから闘いが永続性をもちえなくなるのです。
先に、「広い意味での闘い」という言い方をしました。
闘いというのは何も非日常的な出来事に対する闘いだけではありませんし、またそのような闘いだけに限定する必要もありません。
むしろ日常的な協働目標を見いだすことによって連帯的協働の大義を風化させずに持続することができます。
連帯は弛緩のなかからは生まれないのです。
・・・とはいえ、このような連帯行動の現実的可能性は、人間がエネルギー個体と化してしまった壊滅的な人間状況からの脱却の道として構想されているのです。
そのため、否応なく、そうした壊滅的な人間状況を現出せしめた資本主導型の現代文明そのもののオルターナティヴとして提起されざるをえません。
したがって、それは課題としてまことに大きいものです。
大きすぎるくらい大きいでしょう。
世紀単位の射程で追求されるべき課題です。
それが最大限綱領のごとき目いっぱいの目標設定であることは確かです。
この大目標は現にいまその場所をもたないという意味では、一個のユートピアにすぎません。
しかしそれは世紀単位の射程においてであれ実現可能なオルタナティヴであるという意味では、非現実的な課題ではありません。