「ネットワーク」という組織の在り方や「個性」「自律性」などに関するあれこれの議論・・・


これらは、表層次元のこととしてなら別段それに異議をさしはさむべき筋合いのものではありません。


また、ここで取り上げる必要もありません。


深層次元における人間状況の深刻さに眼を向けることが先決なのです。


さて「個人」とは英語ではインディヴィデュアル。


つまりディヴァイドできない、これ以上分割できないものという意味だといわれています。


たしかに、物理的にはヒトをそれ以上分割することはできません。


・・・しかし、それだけのことなら、ヒトに限らずあらゆる動物がそうです。


モノ一般でさえも、それが一個のまとまりをなす機能体であろうとすれば、分割するにも限度があります。

世界史は、いま改めて市場経済ないし資本制経済のグローバル化時代に入りつつあります。


「いま改めて」というのは、ソ連や旧東・中欧社会主義国において試みられた非資本制的な経済制度にもとつく社会づくり・国づくりが頓挫して、市場経済ないし資本制経済への回帰現象が大々的にみられるからです。


マルクスとエンゲルスが『共産党宣言』においてするどいタッチで描き出した「ブルジョアジーの生産様式」および「ブルジョア文明」のグローバル化。


これは、ある意味では、それとは異質の生産様式および文明の創出を企てたロシア革命以後のソ連や第二次大戦後の東・中欧諸国における実験期間を間奏曲とするかたちで、21世紀の現在も継続しているとみることができます。


その意味でも、「いま改めて」なのです。


それゆえ、「資本主導型の文明」総体に対するオルタナティヴの追求は、市場経済ないし資本制経済のグローバル化が「いま改めて」進展しようとしている現段階ではアクチュアルな課題設定とはなりえません。


では、いかなる現実的方策がありうるでしょうか。


先に「連帯」という語の用例を引き合いに出した際、論者たちがみな「個人」の概念を前提にして連帯の在り方を構想していることに違和感を呈しておきました。


「個人」・・・。


しかしそれは、ことがらの表層形態に眼を奪われた見方であって、なお深層構造の把握にまでは届いていません。


もとより、「個人」といってもその意味内容はさまざまで、上記論者たちの間でも捉え方には大なり小なり差異があるでしょう。


しかし、無前提に、というよりも無反省に「個人」という語を用いている点で、そもそも本書の立場はそれらとは一線を画されます。

個々人にとっては同じような外観を呈する闘いや主体的な死も、置かれた状況ごとにその質や意味が違ってくるわけです。


しかしそうした崇高な闘いの高揚も、いずれは波が引くように沈静化します。


ヒトビトがエネルギー個体としてバラバラに分断されている状況のもとでは、闘いを高揚させること自体からしてなかなかに困難でしょう。


では、せっかくの連帯的協働も単にいっときの祝祭に成り終わるほかないのでしょうか。


そうではないと思います。


「闘い」の概念を狭く限定するから闘いが永続性をもちえなくなるのです。


先に、「広い意味での闘い」という言い方をしました。


闘いというのは何も非日常的な出来事に対する闘いだけではありませんし、またそのような闘いだけに限定する必要もありません。


むしろ日常的な協働目標を見いだすことによって連帯的協働の大義を風化させずに持続することができます。


連帯は弛緩のなかからは生まれないのです。


・・・とはいえ、このような連帯行動の現実的可能性は、人間がエネルギー個体と化してしまった壊滅的な人間状況からの脱却の道として構想されているのです。


そのため、否応なく、そうした壊滅的な人間状況を現出せしめた資本主導型の現代文明そのもののオルターナティヴとして提起されざるをえません。


したがって、それは課題としてまことに大きいものです。


大きすぎるくらい大きいでしょう。


世紀単位の射程で追求されるべき課題です。


それが最大限綱領のごとき目いっぱいの目標設定であることは確かです。


この大目標は現にいまその場所をもたないという意味では、一個のユートピアにすぎません。


しかしそれは世紀単位の射程においてであれ実現可能なオルタナティヴであるという意味では、非現実的な課題ではありません。

命は尊いとしても、死ぬこと自体は尊いことでも何でもありません。


留意すべきは、個別と全体との一体性は「すでにそこに存在している」というスタティックな性格のものではなく、絶えざる闘いのなかで「絶えず形成されつつある」という永続的でダイナミックな性格のものだという点です。


そこへいくと、へーゲルの説く「共同こそ最高の自由」という命題は闘いの契機を欠いている点で非現実的であり、にもかかわらず至口同の命題として提起されている点で欺隔的です。


このような連帯および連帯意識に類するものは、これまでにも、さまざまな時代にさまざまな地域で、大小さまざまな規模の闘いの現場で、現存したかにみえます。


しかし、そのつど、闘いのなかで高揚しては闘いの終息とともに消えうせました。


消えうせたのは、闘いが終息したからです。


その闘いは、不当な侵略に対する祖国防衛の闘いであったかもしれないし、人間の自由と尊厳を求める社会変革の闘いであったかもしれません。


あるいは国土破壊的な自然災害に対する国を挙げての闘いであったかもしれません。


いずれの場合であれ、闘いは当の協働体のグレイドを大なり小なり高めるのに貢献したはずです。

中央としての東京は、したがって、日本の核として論議されるほうが、いずれ都合がよいともいえます。


多くの企業が東京市場において名とともに実を取りたいと願うのも、中央としての、また核市場としての位置を東京が有するからであり、全国に対する特別の波及効果を持つからでもあります。


明治以降このかた、○○銀座を呼称する商店街が全国に百以上も出来てきたことをみても、このことは理解されます。


何より東京は、歴史的にみてこの波及性という中で全国の目やすを与えてきたのであり、換言すれば、"標準値"を示してきたといえるかもしれません。


東京ではこうなっている、東京に比べてここが違うといった扱いは、まさに、ものさしそのものが東京であったということかもしれません。


人は常に何か比較する対象を求めて行動するものであり、その点で、良き対照であったのが東京です。


「地方の時代」のいわれもまた、東京に対しての、個々の発展を求めたものであるともいえるでしょう。


また、東京市場でのノ%の重みは、その規模をベースとして、地方都市の何倍、何十倍の大きさに値するだけに、"実"にしての寄与率が大きく、企業をして売上げの基盤ともなっています。


Tomcatによれば、ここでもまた、売りの目やすをつくるという点で、東京は企業の好対象市場となるのです。


・・・こうした東京市場の意味は、地域的存在としての位置を説明しているのであり、そこで東京は、地域市場として論議されるべきことを示唆しています。

「お国のために」とか「天皇陛下万歳」といった形での自己滅却は、連帯死とは似て非なるものです。


それはみずからの自由意思にもとついて選択した死ではありません。


選択の余地なき切羽詰まった状況のなかで、あたかも主体的選択にもとつく行為であるかのごとき辻つま合わせが行なわれることはあるにしても、その自己矛盾は明らかです。


選択の余地なきところに、どうして主体的選択がありうるのでしょうか。


何らかの超越的なものに対する屈服や諦念にもとづく行為は、協闘者たちに対する限りなき信頼とおのれ自身に対する掛け値なしの充足感とを伴う行為とはおのずから一線を画されます。


第一、強制された"主体的選択"死は遺族をはじめ周囲の者たちが、そしてだれよりも本人自身が納得のゆくだけの意味をもちえたでしょうか。


協働体に前進と向上をもたらすのに役立った死でしょうか。


当の闘う集団は、そもそも「協働体」には程遠いものでしかなかったのではないでしょうか。


・・・協働体は、個別と全体との一体性という側面を有するけれども、一体性、つまり一つであるといいうるのは、その全体が個別の満面開花を妨げずに成立する全体であって、個別を犠牲にして無理やり組織され動員された似非全体ではないからです。


「陛下のため」の戦いの相手は、端的にいって、連合軍でした。


デモクラシー対ファシズムの戦いという図式は多分に事後的な整理であり、しかもこの図式自体が一面的なゆがみを帯びています。


しかしたとえそうだとしても、少なくとも「ファシズム」側が「デモクラシー」側を超え出るような理念や大義をもっていたとは考えられません。


したがって、たとえ出陣学徒や皇国少年たちが100パーセント純粋にみずからの自由意思にもとついて祖国のための死を決意していたのだとしても、それはここでいう連帯死には値しません。


そこでは、いずれにしても皇国死は既存の社会形態や人間関係の在り方を超え出るものを生み出す契機とはなりえなかったでしょうから。


ただし、誤解なきよう・・・。


「死」はあくまでも極端なケースであって死に方の考察がここでの中心テーマなのではありません。

面的関係としての連帯は、線的関係としての愛と友情をも契機として含んでいます。


一致協働して闘うところに、単なる愛や友情の次元を超えた新たな面的関係が形成されます。


しかも闘いの目的.使命を・・・


つまり当の闘う協働集団全体にとっての大義を、当初は少数者が自覚しているにすぎないとしても、協働的闘いのなかでそれが次第に面的に共有されるようになります。


そのうえで、事情次第によっては生命を賭すことも辞さないのです。


そこに連帯の深い意味があります。


生命を賭すことも辞さぬ意識・・・


協働的闘いのなかで自己利害本位の動機を克服したところに芽生える新たな意識をいだかしめるだけの〈人間〉関係がそこには成立していることが、そういう選択をなさしめることにもなります。


付け加えていえば、〈人間〉関係はすでにそこに在るのではなく、生成するものであり形成されるものです。


・・・なるほど、愛のために命を賭すということもしばしばありえます。


しかし、その場合は、もっぱら愛の相手を思うて命を捧げるところに主眼があり、どこまでも線的関係の枠内での行為です。


第一目標としてはあくまで面的関係のなかに生き、闘いの目的を成就するために状況次第ではおのれを捨てることもあるというのとは根本的に異質です。


むろん、単なる自己滅却とも異なります。


生命を賭すことがイコール大義に殉ずることになるわけではありません。

「連帯」概念のトーンをもっと強めて、ここでは「連帯」はありうべき人間関係の最高形態であるという視点を提出しておきます。


いわばフォルティッシモとしての「連帯」概念を。


さて、「愛」は当事者間における片務的な関係でありえますが、「友情」は自立した当事者間における相互的な関係であり、したがってより社会的な性格が強いです。


「連帯」は当事者相互間における複数の相互関係であり、というよりも線的な関係の集合という次元を超出しており、そもそもの成り立ちからして面的な相互関係として存立します。


面的であるということは社会性を含意しています。


そうしたいわば一枚岩の凝集性また結束力をもつことができるのは、連帯が元来、広い意味での何らかの「闘い」を協働して推し進めるなかではじめて芽生えるものだからです。


「闘い」というのはボウルズとギンタスのいう「集団的実践活動(コレクティヴ・プラクティシズ)」をうんと強めた言い方です。


集団的実践活動の達成目標が困難なものであればあるほど、連帯のきずなはより強くより質の高いものになるでしょう。


その意味で、「闘い」においてこそ連帯は最も豊かなかたちで形成されることになります。


「ゆるやかな連帯」なるものは、その点からすると、わざわざ「連帯」というほどのものではなく、せいぜい「協力」とか「助け合い」という程度のものだともいえるでしょう。


愛や友情は二者間でも成り立つけれども、連帯は通常もっと多数の者たちの間で成立するものです。


闘いの相手は自然的なものであることも社会的なものであることもあるでしょうが、いずれにしても協働して闘うなかで場合によっては生命を賭すことも辞さないのです。

「リップナックとスタンプスによれば、ネットワークでは、紐織は開放的で、参加主体が相互の差異を認めあいながらゆるやかに連帯しなければならない」。


「集団的実践活動において諸個人が一つに結合すること」。


「引き裂かれた共同社会に将来の連帯を提起し、ひとりひとりにしかるべき場所と花開く希望をあたえるような未来設計を提起すること」。


「......3つのテーマが、あらゆる〈進歩〉とあらゆる政策を評価する基準を定義する。


3つのテーマとは、個人と集団の自律性、個人と集団とのあいだの連帯、社会、社会的活動の生産物、社会環境のあいだの関係原理としてのエコロジー、である」。


・・・以上の用例はいずれも、「連帯」を望ましい人間関係の在り方を指し示すキー概念として捉えています。


もうひとつこれらに共通しているのは、連帯が諸「個人」の結合として捉えられている点です。


では「個人」という言葉は用いられていないけれども、「市民的」という語に同等の意味が込められていると解しえます。


こまかいことをいい出せば相違点はいろいろあるけれども、おおむねこれら2点において共通の捉え方をしているといえるでしょう。


これら2つの共通点のうち、われわれと意見が特に岐れるのは後者の点です。


その点に立ち入る前に、われわれの「連帯」概念を示しておくべきでしょう。

「連帯」という言葉は通常どんな使われ方をしているのでしょうか。


手近な用例を二、三挙げてみましょう。


「イタリアの南北問題を第一、第二のイタリアと考えると、北東の部分にイタリア型発展がある。


それは伝統的な職人のような小さい企業が次から次に起きる。


イタリア経済がECのなかでも目立って活性化しているのは、この発展の寄与するところが大きい。


それこそ市民的な、地域の共同的な連帯に基づく内生的な発展であり、市場経済のなかでイノベーションをそれなりに実現するものであり、スミス的な分業の発展のメリットをよく生かした体制と考えていいのではないか」


・・・このような意見を述べた人がいます。


「ネットワーク」すなわち「ある目標あるいは価値観を共有している主体を、既存の組織への所属とか個人の狭い生活空間などのさまざまな制約を越えて結びつけるような組織」において。


これは、「参加者の独立性と個性の尊重ということを他人との連帯や全体に対する貢献と結びつけることが重要です。


つまり相互の差異を認め合いながら連帯しなければならない」のです。


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